昭和47年4月8日 朝の御理解
中村良一
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
三代金光様の、お言葉のなかに、本当に、御道の信心の、おー、局地だと思われる。それは、実に素朴な表現で、えー、ご自身の信心をご述懐なさっておられるお言葉の中に、えー、読んでみましょう。「天地のことは、人の力に及びませんでなあ。神信心には、なにごとも辛抱することが、一番大切でございます。教祖様が、欲を離れて、神様の御取次ぎを、お受けなされ、四神様がお後を十年、夜に、日に、欲を離れてお座りなされ、早うお国替えなされてなあ。それから、何も知らぬ私が、座りさえすれば楽じゃと言うて、座らせてもらいました。初めのうちは、辛うて、辛うて、よう泣きましたがなあ。親様の教えを守らせて貰うて、泣く泣く辛抱しいしいに座っとりましたら、欲しいものも、考えることも、いつの間にかなくなりましてなあ。有り難うて、有り難うてならぬようになり、何ぼ、お礼を申しても足りませんのじゃ。お礼の足りぬお詫びばかりしておりますが、勿体ないことであります。」まあ、何時も頂くお言葉です。何時も、そこんところの、えー、ところの、前後のところが、少し加わっておりますがね。その、何時も、ご述懐の言葉として、申し、お話致します、その前のところがね。
信心は、あー、楽じゃがと仰る。けれども、金光様の、この、お言葉を頂いても、座っとりさえすれば楽じゃと。座りさえすれば楽じゃと。そういう意味で、あの楽なのですね。けど、その座るということが、実は、大変な辛抱のいることなのであります。それこそ、座っとれば楽じゃと言われたから、ね。座っとりましたけれども、辛うて、辛うて、よう泣いたとこう仰せられます。ね。
私は今日の、六十八節から、教祖様の、三代様のこの、ご述懐のお言葉と、併せていただいて、ね。いかに、信心辛抱させて頂くということが、大切かと。しかもその、信心辛抱と言うても、その辛抱するということが、ね。ここでは、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬと、こう仰る。神参りをするのに。これはまあ、あー、皆さんも、今日のような、お湿りの日でも、こうして、えー、お参りになっておられます。ね。今日はまあ、雨が降るきん、御無礼しようなんていう人は、まあ、合楽にはないようです。むしろ、雨が降るから、風が吹くから、今日は一修行させてもらおうといったような人が、まあ、合楽では殆どだと思います。ね。ですから、そこんところは、皆さん、出けておられるのですから、ね。いわば、日常生活の上に起きてくるところの、雨であり風であると思われるようなこと。そういうような事のなかにです。辛抱がなされなければならない。そういう辛抱こそ、身に徳を受ける仕様なのです。初めの間は、そこのところを、辛うて、辛うて、よう泣いたと。と言うて、それで、泣きながら挫折しておられない。泣きながらでも、辛抱しぬいておられるというところなんです。大事なところは。ね。そこからです、欲しいものも考えることも無くなられる。ね。有り難うて、有り難うてと言うお徳を受けておられます。その、有り難うて、有り難うてと仰せられるところの、その心こそが、和賀心なのです。だから、そういう、有り難うて、有り難うてというような、おかげの頂けれる、そういう答えの出るところの、信心であり、また辛抱でなからなければならんという事になります。ね。辛抱しぬかせていただいて、こげなおかげを頂いたといったような答えじゃないのです。辛抱しぬかせていただいて、ね。例えば、あー、商売が繁盛するようになりました。そこんところを辛抱しぬかせていただいて、自分の願いが成就いたしましたと言ったようなものじゃないのです。辛抱しぬかせていただいておりましたら、むしろその、おかげが、というものはもう、無くなってしまってる。いわゆる、欲しいものも、思う事もなくなってる。考える事すらなくなってる。そして、有り難うて、有り難うてと言う答えが出てきておられる。ね。ですから、私は、御道の信心というのは、そこのどの辺を、お互いが通っているかは、分からんに致しましても、そういうはっきりした、目指しというものが、目的というものがです。あって、お互いがそれに向かって、信心辛抱しぬかせて頂いておるというものじゃなからなければですね。何時も、ご利益というものが、おかげというものが、目指しであったらです。何時までたってもおかげは受けられんです。本当のおかげは。ね。
この新聞に、ある地区で大会が開かれております。その、おー、テーマというのが、神の願いを世に現そうというのである。神の願いを世に現そう。素晴らしいと思うた、私は。これは、合楽だけじゃないな、ここでも、こういうような願いの下に、テーマの下に、いー、信心修行をしておられるところがあるなと思うて、その内容を読ませて貰うてがっかりした。神の願いとは、どういう事であろうか。ね。しかも、神の願いを受けて世に現そうと。神の願いとは、どういう事であろうかと。そこで、この内容を見てから、がっかりしたというのは、まあ、初歩の心という意味でもありましょうけれどもです。ね。いわゆる、金光様のご信者を一人でも、余計に増やそうということ。お導きをさせていただこうということ。果たしてこれが神の願いだろうか。今のような金光教の信者が、どれだけ沢山、山んごとおったっちゃ、大して役に立たんですよね。そうでしょうもん。現に、立ってないじゃないですか。現在の金光教の信者のようなものでは。ね。全部が全部とは言えんけれどもです。ね。○○教団ではないですけれども、ね。全国、津々浦々に、ね。沢山な、いうならば、信者を擁しておる教団がありますよ。けれどもそれは、ただ、お葬式のときのために、その宗教があるというような程度の宗教であって、どれだけ人間が集まったって何になりますか。ね。私、それを思うです。合楽では。もう、それはね。沢山の信者も集まらなければなりません。けれどもね、その根本のところを目指す姿勢というものが、同じ姿勢でなからなければいかん。いわゆる、神の願いを現そうという姿勢にならなければいけん。神の願いを現すことが、ただ、信者を増やすことだけ、御利益を受ける事だけならば、金光様の信心こつは要らん。ね。私は、ここまで申しますと、皆さんはもう、お分かりになっとると思うんです。ね。神の願いを現すという事は、どういうことなのか。神の願いを世の中に現していこう、ね。神様は、天地金乃神様は、金光教の信者が世界中に一杯広がるという事を願っておられるのだろうか。そんなこっじゃないです。ね。金光様のご信心すれば幸せになる。なっていない人が殆どじゃない。ただ、おかげは受けています。ご利益、ご利益は受けておりますけれども、ね。三代様のこの、お言葉を頂かせて貰うてです。ね。思うこともなくなり、考えることもなくなり、言われる。欲しいものもなくなり、そして、有り難うて、有り難うてと言う心。いわゆる、和賀心、ね。その和賀心を目指さして頂くということがです。その過程においては、辛うて辛うて、もう、辛抱もしきらんというようなこともあるけれども、そこを、神様にすがって辛抱し抜かせて貰うて、ね。そういう姿勢をとらせて頂くということがです。ね。かすかにでも、有難いというものに繋がって答えが出てくる。そこには、例えば、問題が問題ではないと言う。
小倉の桂先生が、こと神様のことに至っては、前には進んでも、後ろには引かんと仰ったのもです。これは、ただ、御用といったようなことだけに、後には下がらんといったようなことではなくて、信心辛抱し抜く。もう、一にも押し、二にも押しで、信心辛抱し抜くことだと私は思うです。福岡の初代が、ね。馬鹿と阿呆で道を開けと、ね。本当に、日常生活の上に起きてくるところの様々な問題。言うなら、雨やら風に匹敵するような問題があっても、さ、そこをです、もう、辛抱というよりも、もう、そこんところを馬鹿で受けて行け、阿呆で受けて行けということ。久留米の初代が、信心辛抱さえしておれば、物事整わんことは無いと。ご自身もそれを、かけまんまのようにして、頂かれたという事は、もう、久留米の初代などの場合などはです。そう、その辛抱がせんでも済むほどしの、豊かな心、大きな心、美しい心というものを身に着けておられたと、私は信じますね。三井教会の初代がです、ね。コリを積ますな、コリを積むな、身を慎めと。いかに、黙って辛抱し抜かれたかということです。そら、言いたい事もおありになったろう、ね。厳しい躾もしたいような時もおありになったろう。けれどもです、それによって、コリを積ませるような事などあっちゃならんから、そういう時に、人が悪いのではない、我、悪しというような受け方をされて、じっと、辛抱し抜かれて、言わんで済むほどしのおかげを受けられた。現在、合楽で言われておる、それなんです。昨日も、ある方がお参りをして、まあ、毎日のように、合楽に、最近、ま、ま、その身内の方なんです。お参りをしよりますと。ところが、最近は、合楽でもう、黙って、言うなら治めると。もう、これが、合楽の今の最高の信心だと言われておる。ところがその、本当にいよいよ、黙ってしまって、言わにゃんこつでん言わん。そして、黙っとるぶんには良かばってん、プンプン腹けーとる。それでその兄弟達がです。もう、いててたまらずにです。ね。黙って治めるという事は、私は、そんなこっじゃないと思うです。ね。例えば、ほんなら、まあ、店の者なら、店の者がです。寒いところに、雨の降るところに、例えば、御用でもして帰ってきたら、はー、しろしかったろね。やー、ご苦労さんの一言言うたら、どのくらい楽になるかと、使用人が。兄弟達でもそうなんだ。ほんとに、もう少し、親方なら親方らしい、優しい言葉の一つもかけてくれたら、どのくらい、兄弟達の生き生きとしてくるかと。それを、この頃はもう、それこそ、ぶっと腹けちから、物言わん。だから、間違い(うふ)。そういう事じゃないんですよね。黙って治めるという事は。ね。自分の感情が出てきて、ここでいっちょ、おごらにゃならんとか、言うて聞かせにゃならんと、言うようなところをです。泣き泣きでも辛抱しろということであってです。黙って治めるという事はです。挨拶もしちゃならんと言うこっじゃないです。自分の非を悟らせていただいたらです。ここで言う段じゃない、私がお詫びをさして頂く以外にはないというなら、その姿勢の中にはです。謙虚な、ね。周囲のものが見たら頭の下がるような雰囲気が、そこに生まれてくるような、黙って治めるという事を頂かねばいかんのです。もう、あれには物は言わん。そん代わり、ものも頼みもせん。と、言うような、私は、だんまりと言うのじゃないと。ね。返って、黙ってコリ積ませよる。ね。
これは私の手続きであるところの、おー、三井教会、久留米、または、福岡、小倉という先生方が、ね。その信心の中心になさったというほどしの信心というものがです。私は、三代金光様の、このご述懐のお言葉の中に、全てあると思うです。ね。金光様がお取次ぎを願わせていただいても、お伺いをすれば、簡単にお答えになるだけ、おかげを頂きましたとお礼を申し上げ、ただ、「はい」「はい」と仰せられた。けどもその、「はい」「はい」のご内容というものは、どれだけ深いか、広いか分からなかったものを感じた。金光様が「はい」「はい」といわっしゃったけん、腹けてござっとじゃなかじゃろかと言うて、コリ積んで帰るものは一人もいなかった。もう、それが、有り難うして、有り難うして応えんようなものが、を、周囲に与えなさったでしょうが。そら、黙って治めるという事は、そういうことだと思うのです。ね。
神参りをするにと言っておられますね。信心は、金光様のご信心をさして頂くならば、信心辛抱することが一番大事だと、金光様のご信心とは。けれどもその、辛抱する目当てと言うものがです。おかげば頂かんならんけん、辛抱する。というとですね。もう大変に、お粗末になってくるんですよ。眠かばってん、おかげ頂かんならんけん辛抱するという。ね。まあ、そこんとこを言うてしまえば、あんまり、味がないようですけれどもね。ようは、いよいよ、嫌が上にも、和賀心が、心の中に頂けることのために、辛抱するのですよ。ね。例えば、ほんなら、合楽でです。この新聞に出ておりますように、ね。神の願いを世に現そうというテーマで、ほんなら、あー、会でも持たせていただいたら、その内容のお話というのは、ただ、一生懸命一つ、お導きをせろといったような事にはなって来ないと思うですよ。今日、私が、皆さんに聞いて頂いておるような事が内容になる。ね。そして、有り難うて、有り難うてと言う、ね。そういう答えが出てくるところの信心をさせて頂くということ。それが周囲に伝わっていく。
昨日、おー、総代会で、永瀬さんが、お話しておられました。ほんとにあの、私共が、まあ、たいした信心も出来ませんのですけども、ね。家族中の中に、金光様信心と言うものが、何とはなしに、こう染み透っている。ね。子供がおらんからと思いよると、合楽に電話かくれば、合楽にいっとるという様な。最近、縁につかれた娘さんの婿も、おー、こちらへ帰りますと、一番口に合楽に参拝のおかげを頂きますし、この頃からは、長男の、勝国さんと一緒に、京都のほうへ行ったが、行き戻り、やはり、ご本部参拝させていただいて帰ってまいりましたと。ね。いうなら、私は、永瀬さんの有り難うなっていかれる、まあ、いろんな例を言うと、もっと分かるでしょうけれども、問題は何時もあっとる。ね。もう、ここで腹を立てんなら馬鹿らしかち言うごたる所もあるけれどもです。ね。そういうようなことを、私は、まあ、そこはそうは仰らんですけれども、これを、いかに受けることが信心かと。そして、これを和賀心で受けるという事は、難しいことだけれども、ここが、稽古だからという受け方をしておられると、私は思うです。ね。そういう信心がです。子供達にも、親戚にも、染み透っていっておるということ。ね。そういう辛抱がです。いよいよ、身に徳を受ける修行とおっしゃる。お徳ともなって、ね。なるほど、あれだけ一生懸命になりよりなさったがというような、おかげが現れてくるところになるころにはです。もっともっと、広い範囲で、金光様を頂こうとする人達が出来てくるだろうと、私は思います。
神の願いを世に現す。それは、ただ、私共の願いが、一つ、二つ成就するくらいなことがです。神の願いじゃない、ね。総一億というですか、総何億となりますか、ね。言うなら、世界中の氏子がです、人間の、本当の幸せというものを、ね。和賀心に絞らせて頂く、有難いという答えをださせて頂くという姿勢を、そのほうに、方向を向けるということのためにです。私共がまず、おかげを受けさせていただいて、和賀心を目指せば、こういうおかげになってくるという、おかげを頂く事が、神の願いを世に現していく事ではないだろうかと、私は思うです。ね。自分の頂いておる、そういう意味での、おかげが、世の中に潤うて行くと言うことがです。神の願いを世に現していくことじゃないだろうか。金光様のご述懐の、いわゆる、お言葉の内容が、ね。ま、金光様のご信心の全てと言うても良いくらいに、あの、素朴なお言葉の中に伺われます。その、どこを通っておるかは、お互いの信心で、分かりませんけれどもです。そこを、やはり貫かせてもらう。初めの間は、辛うて、辛うて、よく泣いた。けれども辛抱しておった。それは、こういうおかげを頂かねばならんからというものではなくてです。ね。親の願いをただ、ひたむきに受けられて、座っておったらということなのです。いうなら、ね。その親が、もっと大きな親。いうならば、天地の親神様の願いを受けてということ。ね。なら、天地の親神様の願いというのはです。氏子、ただ、病気がようなるとか。商売が繁盛するとか。そういうご利益なら、天地の親神様ではなくても、金光様じゃなくても良いて。ね。答えにおいては、思うこともなくなり、考えることもなくなるほどしの心の状態が開けてくる。これが和賀心。しかもその、和賀心には、有り難うて、有り難うてと言うことになってくる。ね。そういう答えのでる。有り難うて、どういう事の中からでも、有難いという答えの出てくるような信心を目指すという事はです。ね。その中間においては、辛うて、辛うて、と、何かに、他のものにすがらにゃおられん。もう、挫折するようなところもあるけれども、そこを、泣く泣くでも辛抱するという辛抱でなからなきゃならない。そして、もう、その辛抱というものは、辛抱が辛抱ではなくて、ね、豊かな、大きな、いわゆる、久留米の石橋先生じゃないけれども、信心辛抱とおっしゃられるけれども、私共は、ご晩年の石橋先生しか知りませんけれども、もう、辛抱しておられるといったようなものは、さらさらない。もう、いうならば、ね。大空のような、大きな豊かな、美しい心でです。一切を、受けて流しておられたということ。石橋先生も、お話を大変なさる方じゃなかった。ね。いわゆる、無口で治められるというタイプの方であった。ね。その治め方のその心の内容というものがです。もう、全然、問題が問題にならない。ね。例えばそこに、難儀な問題があったにしてもです。桂先生とのご対話の中にもあるように、ね。「あんたんとこの息子は馬鹿じゃな」と言うようなひどい事を言われなさっても、それが、ひとっつも問題になってない。親先生は、「おかげで信心が出来ます」と言うておられます。辛抱してござらん。事実、その事を通して、本当に信心が、その事を通して出来よりなさるから、そのまま出ただけの事。おかげで信心が出来ますと。「石橋さんでかした」と言うて、一番口、その盃(さかずき)をされたという、お話があるような状態でおありになった。ね。和賀心とは、こういう時に、こういう風にして受けられる心だと私は思うです。ね。馬鹿と阿呆になることも、信心辛抱であることも、コリを積むな、積ますなということも、神様の前には、一歩だって、後ろには退かんと言う桂先生の、いわゆる、不退転のご信心においてもです。その焦点が、目的がです。ね。神の願いに応えての、それであるというところに値打ちがあるのです。そういう信心しよりゃ、おかげが受けられるがのというようなものであったら、先生方の信心も、程度の低いものになるです。ね。まあ、ここはいっちょ、馬鹿と阿呆で辛抱しなさいというだけであるならば、その馬鹿と阿呆という教えの内容が非常に程度が低くなるです。ね。神の願いをうけて、受けて受けきって、神の願いが世に現されることのために、ね。そういう信心修行がなされるというところに、私は値打ちがある。世の中に、ね。そういう願いを受けて立たれるような人が、一人でも多く出来ることが、神の、私は願いである、ね。合楽で言われておる、ね。和賀心時代を作るということこそ、私は、もう、ギリギリの神の願いではなかろうかと思うです。ね。そのためにです。例えば、その辺の様々なことを、まあ、ひっくるめて言うならば、その信心辛抱の、おー、内容を言うならばです。ね。信心するものには、天地日月の心になること肝要だといったような信心が、身に着いてくることなのです。ね。そういう、信心修行の中から、ね。欲しいものもなくなり、考えることもなくなるといったようなおかげが。そしてそこから、答えとしては、有難い、有難いという信心が。それでも生身のことでありますから、その有難い、有難いというその、おかげが、ね。いわゆる、勿体ない。信心も出来んのに、このようなおかげを頂いてと思わせて頂くところから、お礼の足りないお詫びばかりをというよな、謙虚な信心が出来るのじゃないかとこう思うのです。お互いの、信心の焦点が、どういう、どこの過程であっても良い。けれども、願うところはです。いわゆる、金光大神、三代金光様のお言葉の中にありますような、ね。あれは、金光様の専売特許じゃない。私共も、あのようにおかげが受けて行かねばならぬというところに、焦点が置かれ、それを、煎じ詰めますとです。いかに、和賀心を持って全てをお受けになられたか。その、和賀心を得られるために、有り難うて、有り難うてと言う心のおかげを頂かれることのために、泣く泣くの辛抱もおありになった。ね。その、泣く泣くの、例えば、辛抱がです。ね。これば一つ成就、願いが成就することのために、辛抱であったら小さいでしょう。特に商売が繁盛することのために、ということであったら、信心が小さいことになるでしょう。ね。神の願いを受けて、神の願いを世に現すことのために、お互いが辛抱させて頂くということになったら、信心が非常に大きゅうなってくるでしょう。しかも、それでなからなければです。本当の、金光教的おかげにはなって来ないと私は思うです。ね。果たして、自分が、そういう願いの元に信心をさせていただいて、その信心が、どの程度に、自分の周囲に浸透していっておるか。まだまだ、浸透するだけのものではない。まだ、自分自身が、やっとかっと。ね。いや、自分自身が、そこに焦点を置いてはいない。こうやって、雨が降るから風が吹くでも、それこそ、眠いけれども、一生懸命参りよるけれども、その参っておる、その目的というものは、ただ、小さい、小さい、言うならば、目的のために、それがなされておるというのであったら、惜しい。だから、その大きな願いの中に、自分の小さい願いはあるのですから。それこそ、大は小をかなえるのですから、ね。大の願いを持って、ね。ただ、私共の願いが成就することのためではなくて、大きな神様の願いが成就することのために、その修行がなされるとき、その修行は生き生きとしてくる。尊いものになってくる。それが、私は、神の願いを受けて、そして、神の願いを世に現していこうとするものの、姿勢だというふうに思うのです。ね。その内容を、今日は、金光様のご述懐のお言葉のなかから、または、えー、私の、ここの手続きでありますところの、おー、桂先生はじめ、ね。各先生方の、ご信心の内容というものを、併せていただきました。例えば、そういう、信心がです。信心には、えー、信心辛抱することが一番大事だと、と言われても、ね。例えば、馬鹿と阿呆になることでも、信心辛抱することでも、コリを積むな積ますなということでもです。それが、ただ、目先の小さいことの願いのために、それが、凝視されるならばです。それは、せっかくの先生方の信心も、それは、浅い、小さい物になってくるです。こちらの受け方次第で、それが、いわゆる、和賀心時代を作るというほどしの、信心に繋がっておる頂き方。教えの受け方をしなければいけないと思うですね。どうぞ。